死にたがりの楽天家・自由堂ノックがが裁判傍聴やADHD、仮面ライダー、刀使ノ巫女などをテーマに書きます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今回から2回にわたり、ADHDとお仕事の関係について書いていきたいと思います。
「大人のADHD」という言葉をよく聞きますが、これは決して大人になってからADHDになった、という意味ではありません。
生まれつきADHDだったことが大人になって初めてわかった、ということです。
私は、自分がADHDという知的障害者だと気づくのに24年かかりました。これでもまだ早い方だと思います(もっと前の世代だと、そんな言葉知らないまま一生を終える可能性もある)。
なんで大人になるまで気づかないのかというと、
「学校の勉強はまあまあできたのに、就職したとたんにまるで使い物にならない」という人が多いからです。それほどまでに、ADHDにとって仕事は重要です。
よく、「選ばなければ、仕事なんていくらでもある」とか、「生きるためにどんな仕事だろうと頑張れ」とか、「世の中に楽しい仕事なんかない」とか、「どんな仕事も最初の3年は我慢しろ」とか、『社会人の知恵』とでもいうべき諸先輩方のありがたいお言葉がありますが、
ああいうのは大抵、ADHDじゃない人(定型発達者)に向けて書かれた言葉です。
ADHDは仕事を選ぶのです。
もし向いていない職業にうっかりついてしまうと、仕事ができず周囲に迷惑をかけ、日々冷たい視線にさらされ、どんどん自己評価が下がっていくという悪循環に陥ります。
「そんなの甘えだ! 『向いてないかも』と思った仕事でも、みんな必死に食らいついてやるもんだ!」と思っている立派な社会人のあなた!
それは、あなたの職場にあなたを含め、ADHDの人がいないから言えるセリフです。
もしあなたの職場にADHDの人間がいれば、
なんでこんな簡単なこともできないのかとイライラし、
何度言っても同じミスを繰り返す姿にイライラし、
うっかり大失敗をやらかす姿にぶち切れ、
「俺の職場から消えろ」的な目線、もしくは言動を浴びせることでしょう。
そして、そう思われていることに気づかないほど、
僕らは馬鹿じゃない。
だから、一度社会から脱落したADHDの復帰は難しいです。
だって、職場は怖いもの。
みんなが邪魔者扱いしていることぐらいわかってるし、その原因が100%自分にあることもわかってるし、直そうとどんなに頑張ってもまた繰り返してしまうこともわかってる。
こうして、ADHDを排除して「できる社会人」だけの完璧な世界は今日もまわっていきます。
だいぶ前置きが長くなりましたが、向いていない仕事は避けるに越したことはない。ADHDに向かないと言われているお仕事を紹介していきます。
1.事務
ひどくざっくりとした言い方ですが、どんな会社であれ、事務作業はADHDの天敵です。
なぜなら、不注意の多いADHDに書類を用意させれば、「書類不備」など日常茶飯事だからです。
さらに、整理整頓ができないので、大事な書類は行方不明。
要領が悪いので、簡単な仕事でも恐ろしくもたもたします。
正確さや仕事の速さが求められる事務は向いていないのです。
2.製造業
いわゆる工場のベルトコンベアとか、向いてませんね。
失礼を承知で言わせてもらえば、ADHDの天敵は「退屈」だからです。
集中力もないので、製造業もあまり向いていません。
3.現場作業
事務の時にも言いましたが、基本的にADHDは不注意です。
よく、工事現場に行くと「安全第一」「事故は気の緩みから」みたいな標語を見ますよね。
そんなところにADHDを立たせてはいけません。
「バカヤロー!」って親方にどなられている姿が目に浮かびます。
要領も悪いので仕事はもたもたもたもた。
「バカヤロー!」って現場監督にどなられている姿が目に浮かびます。
4.接客業
これも、不注意や要領の悪さが災いするというのもあるのですが、
接客業にはいろんなお客さんが来ます。
もちろん、すべてがマニュアル通りにはいかず、さまざまなトラブルが発生し、その都度、臨機応変な対応が求められます。
この「臨機応変」ができないのです。
ADHDは具体的な指示がないと動けません。「いつまでに、どこで、なにを、だれと、どうやって」を指示してもらわないと、自分では判断できないのです。
そんな人に「状況に応じて臨機応変に対応して」など、無理です。脳みそがフリーズします。
あと、段取りも取れないので、「あれをやって、次にあれをやって」というのを考えることもできません。
5.警備員
急に具体的な名前が出てきた(笑)。ここから先は「経験者は語る」と行きましょうか。
まあ、接客業の項目も「経験者は語る」だったのですが。
まず、警備員の仕事は基本退屈です。退屈に越したことはないのですが、退屈です。この時点で向いていません。
退屈なくせにちょっとしたミスで、下手したら人命にかかわる場合もあります。
もちろん、臨機応変な対応を求められます。これも苦手です。
そんな警備員さんですが、彼らが何を生きがいにしているのかというと、お客さんからの感謝なのだそうです。
ある現場の隊長はスピーチで「感謝されて何とも思わない奴は、人間じゃない!」と断言していました。
困ったのは私です。
仕事で感謝されても、何とも思わないからです。
そんなお世辞で感謝されても、うれしくもなんともない。何をそんなにありがたるのか。
プライベートで友達から感謝される分には僕もうれしいけど、仕事としてやったことで感謝されても、……特に何も感じないなぁ。
この考え方のADHDは結構多いみたいで、
自分がこういうことを人にしてもらったら感謝の言葉を言うのは当たり前だと思っている一方で、
こういうことをしたら感謝されるのも当たり前。
だから、感謝されたところで別に何とも思わない。これ、結構ADHDのスタンダードなのかもしれません。
例えば、巡回中にゴミを拾ったとしましょう。
ゴミを拾ったらそのお店の人から感謝された。
……何とも思わないですね。だって、逆の場合だったら僕も当然お礼言うし、そこの社交辞令に意義を見いだせないのです。
これは、もしかしたら定型の人にはショッキングな事実かもなぁ。
でも、その分「感謝を求めて何かする」ってこともないから大丈夫。もちろん、感謝されなくても、何とも思いません。
ほしいのは「感謝」ではなく「評価」の方ですね。「頑張ったね」「すごいね」の方が、「ありがとう」なんかよりよっぽどうれしいのですが、警備員がそのように褒められることはほとんどないです。
6.医療関係
ここまで読んでくればわかると思いますが、
人の命を預かる仕事などもってのほか!
私は親から、「医者と航空管制官にはなるな」と言われました。どちらも人命を預かる仕事だからです。
臨機応変な対応もできず、段取りも取れないので、急患なんぞでてもおろおろするばかり。
もっとも、刺激があると仕事ができるので、人によっては向いてるのかもしれませんが、「毎日刺激的だから医者になりました!」なんて奴に命を預ける患者がいるかどうか……。
さて、そろそろうすうす気づいてると思いますが、
要は勤め人に向いていません!
時間の管理ができないADHDに、「毎日決まった時間までに出社させる」ことは難しいですし、
退屈に耐えられないADHDに、「毎日同じ場所に通って同じ仕事をする」というのも苦手です。
またADHDは自分が納得できないことは絶対にやらないという頑固さを持っているので、
「規則だから」「命令だから」と言われても、合理的に納得できないことはやりたくないのです。
そしてなんと、具体的な指示を出してもらえないと動けないにもかかわらず、
命令されることを嫌がります。
「○○しといてね」という「指示」には素直に動くけど、
「○○しろ」という命令には「え、なんで?」という反応を示します。
どうしてこんなややこしいことになるのかというと、
上司をえらいと思っていないからです。
ADHDは物事の優先順位をつけることが苦手です。
それは、相手が人間の時も一緒。人間の優先順位をつけるのが苦手なのです。
つまり、生まれながらに全人類を平等に扱う博愛主義者。全人類みな兄弟だと思っているわけです。
だから、上司が「肩書」としてえらいのは理解できるけど、「人間」としてえらいだなんて1mmも思わない。上司だろうが、社長だろうが、自分と同じ人間。法の下の平等は憲法で保障されている。
だから、「人としては対等」であるはずの上司に「命令」されると、
「え? なんでこの人、命令してくるの? 何様のつもり? 同じ人間じゃん?」
という風に反応します。本気で。
とまあ、ここまで書いてきて、たぶん定型の人の常識が引っくり返るようなことをいくつか書いてきたと思いますが、すべてはADHDについて知ってもらうため。
次回はいよいよ、ADHDに向いている仕事を紹介します。
あるのかい、そんなの。
あるんです!むむっ!また次回!
⇒ADHDのハローワーク後編 ADHDにお勧めの5つの仕事
えらいことになったぁ!!
久しぶりに、大河ドラマを全部見てしまったぁ!
全部見てしまったのは、「新選組!」以来14年ぶりだぁ! あ、どっちも三谷幸喜だ。
そんなこんなで、今日は「真田丸」の感想です。
「真田丸」にはいろいろと唖然とさせられました。
序盤に織田信長役で吉田鋼太郎をキャスティングしといて、
信長との緊張の対面を描いといて、
本能寺の変をやらない!
だって、真田はいなかったんだもん!
武田を滅ぼした織田につくことを、苦渋の想いで決断したとたんに、
知らないところで信長が死ぬ。
この時、信繁はまだ15歳でした。
その後、信繁は大阪城の秀吉に仕えるようになり、秀吉に目をかけられるようになるわけですが、
信繁33歳の時、天下分け目の戦関ヶ原が起きます。
この時、真田家は父・昌幸と二男・信繁が豊臣に、長男・信幸が徳川に付くという決断をします。
どちらが勝っても真田を残す。勝った側は負けた側を全力で助ける。
これぞ名高き犬伏の別れ!
真田家は故郷信濃にて戦いを繰り広げます。ゲリラ戦を駆使して、徳川を追い払った昌幸と信繁。
これは、次回関ヶ原スペシャルかな~、と思ってみていると、勝利の宴を開く昌幸と信繁のもとに驚愕の知らせが。
関ヶ原にて三成敗北!
石田光成、大谷吉継、徳川家康と、真田にゆかりのある人たちがいっぱい参加していたのに、
関ヶ原、一切やらない!
だって、真田いなかったんだもん!
本能寺の変もやらない。関ヶ原の戦いもやらない。
それならば、「真田丸」最大の見せ場とはいったいどこなのか。
大坂夏の陣、まさに最終回、信繁改め幸村が家康を追い詰めるあの時です。
家康は「わしを殺したくば殺せ! しかし、何も変わらんぞ! 徳川の世はすでにゆるぎないものとなっている!」というラスボス感満載のセリフを吐いています。
後は最後の変身をしてライダーキックでとどめを刺すだけ!(仮面ライダーの見すぎ)
まさに、あの瞬間が、真田丸最大の見せ場。
そのことは、幸村自身が認めているのです。大阪城に入る前に、きりに「あなたは何も成し遂げていない」と指摘され、「そんなことはお前に言われなくてもわかっている!」と激高する幸村。
逆に言うと、大坂の陣がなければ、幸村は大河の主役を張ることはできなかったでしょう。
思えば、歴史に振り回され続けた人生です。武田が滅ぼされ、織田についたと思ったら知らないところで信長が死ぬ。その後、大阪城で秀吉に仕え、かわいがってもらうもあくまで家臣A。関ヶ原の戦いで石田側に付いて、自分はそこそこ戦果を挙げたのに知らないところで三成が負けて、山奥に飛ばされる。
確実に歴史のあおりを食らっているんだけど、いつも知らないところで事件は起きて、いつも負け組。
そのうえ、大坂の陣でも負けて死んだとだけ書けば、完全な敗北人生です。
だが、違うんだ。話を聞いてくれ。
真田幸村は、最後の1日こそが、人生で最も輝いた日であり、歴史になお残す日だったのだ。
そんな人、他にいるか?
例えば、真田の宿敵、徳川家康の大河ドラマを作ったとしましょう。
やはり最大の見せ場は関ヶ原の戦い。その後、幕府を作り、大坂の陣で豊臣を滅ぼすまでがクライマックスでしょう。
家康の最期はその1年後。死因はなんと『天ぷらの食べすぎ』。
もっとも、現在は胃癌が原因だったといわれていますが、いずれにしても、家康のドラマは関ヶ原がピークでしょう。
秀吉も同様。栄華を極めた後の秀吉の生活10年分をだらだらとみてもしょうがないでしょう。ダウントン・アビーじゃないんだから。
信長はやっぱりその最期、「本能寺の変」は盛り上がりますが、本能寺の変こそノブナガ最大の見せ場化と言われれば、やはり違うでしょう。
三谷幸喜といえば以前は大河ドラマ「新選組!」を書いたことで有名ですが、新選組もまた、歴史の敗者側です。
しかし、そのクライマックスはやはり「池田屋事件」。その後も新政府軍に上がらい続けましたが、やはり見せ場はその死にざまではないのです。
そういう意味では、真田幸村は究極の大器晩成。
最大の見せ場がその死にざまだったからこそ、「真田丸」は最初から最後まで全部見なければいけない。
豊臣に仕え、歴史の荒波にもまれるも、決して最前線にはおらず、結局何も成し遂げず。真田の名前と父の威光だけが独り歩き。そんな男が人生の最後に挑んだ大坂の陣。
なんのため? 大恩ある豊臣のため? 父や兄が守ってきた真田の家や故郷のため? それとも己のため?
いろんな思いを背負って、死を覚悟して家康の前に立った人生最後の日こそが、真田幸村のすべて。そこに勝ち負けは関係ないのです。
だから、最初から最後まで見ないと、真田幸村最後の一日の重みはわからない。
そして、「真田丸」を最後まで見なければいけないもう一つの理由が長澤まさみ演じるきりの存在。
信繁を慕えど、信繁はいつもほかの女性と結ばれる。それでも、憎まれ口を叩きながら、信繁のそばにいる。
どんな精神力や!
そして、大坂夏の陣出陣前夜、幸村は、きりを抱きしめキスをする。「遅い」と愚痴るきり。そこで入るナレーション。
「実は、高梨内記の娘(きり)に関する記録は少ない。信繁の側室であったとも、信繁の子を生んだとも伝えられている」
要は、何もわかっていないということですね。当然と言えば当然。負けた側の幸村の記録が残っているだけでも儲けもの。仮にきりが側室だったとしても、名家の生まれというわけでもない。記録がなくて当たり前です。
「ただ一つ確かなことは、信繁に関わった女性の中で、彼女が最も長くそばにいた、ということである」
この一言が、なんか救われます。
最終回では茶々から幸村との関係を問われてきりは「腐れ縁」と返しています。そんなきりを嫉妬するようにみる茶々。
これが、「真田丸」を最初から最後まで見なければいけない、もう一つの理由です。全部見ないと、この「腐れ縁」に込められた思いは伝わらない。
さて、「真田丸」の最終回にはサブタイトルがなく、プロデューサーは視聴者それぞれが勝手のつけてよいとのこと。
というわけで、僕も勝手にサブタイトルをつけさせてもらいます。
NHK大河ドラマ 真田丸 最終回「極点」
極点とは、いわゆる南極点、北極点のこと。
これまで、ずっと歴史の裏舞台にいた真田幸村。
そんな彼が迎えた最後の日。それは、彼が歴史のど真ん中に立った、歴史が真田幸村を中心に回っていた最初で最後の日。
それは真田幸村の人生、ドラマが到達した究極の一点、究極の瞬間であり、それが「極点」という言葉のもう一つの意味です。
真田幸村が歴史の敗北者なのか、それとも人生最後の日に極点にたどり着いた男なのか、ドラマを見た人なら、その答えがわかるはずです。
どうも、自称ADHDの自由堂ノックです。今回、まず最初に書かなければいけないこと。
「楽に付き合える」って、いわゆる「恋愛のお付き合い」のことじゃないからね!
ここでいう「付き合える」って、「同僚、上司、部下として接する」という意味で、決して恋愛の話じゃないからね!
これ、重要。何で重要かっていうと、発達障害者は文章や言われたことを額面通りに受け取るから。「冗談のつもり」なんて基本的に通用しません。
さてさて、発達障害の大人の割合は、全体の5%くらいと言われています。20人規模の職場では、必ず一人くらいいるわけです。
彼らは日々、職場のお荷物として生活し、努力で改善しようとしてもどうにも改善できず、「職場から消えろ」という無言・もしくは有言の圧力を受けながら日々憂鬱な気持ちで通勤電車に乗っています。
一方、そんな職場のくずに付き合う方も、日々フラストレーションがたまる一方。
そんなお困りの職場の皆さん! 今日は、発達障害者とちょっと楽に付き合える、かもしれない方法を4つご紹介します。
でも、お高いんでしょう?
それがブログならなんとタダ!
え~、安~い!
さて、本来なら『発達障害』とひとくくりにせず、これはADHD、これはアスペルガーと区別して書くべきなのですが、今回は当事者というより、診断名は割とどうでもいい周りの人間向け。それに、ADHDとアスぺを併発する人もざらにいるので、あえて分けずに書きます。診断名にとらわれることなく、症状で見ていきましょう。
①言われたことをすぐ忘れる
これぞ、ADHDの鉄板ネタと言ってもいい症状。
「あれとこれをやって、終わったらそれをやっといてね」と指示を出せば、そのうちの一つ二つは抜け落ちます。ADHDはワーキングメモリというものが著しく弱く、「指示」「予定」の類を覚えるのが苦手なのです。
そんなお困りの皆さんに取っ手を機の方法を持ってきました!
まずは、メモを取らせる!
これまたADHDのうっかり対策の鉄板です。
しかし、うっかりメモを見ることも忘れるときがあります。そこで、メモとセットでこれをやってみましょう。
1個1個指示する!
一度に2個も3個も支持をするから忘れるのです。1個ずつ支持していけばさすがに忘れない!
しかし、こっちも忙しい。毎回毎回いちいち1個ずつ支持してたら、自分の仕事に集中できない!
そこで、「メモ」と「1個1個」のミックス!
「1個1個メモを取らせる」のです。
正確に言えば、「一つの指示は一つの紙に書く。一つの紙に2つ以上の指示は書かない」。
メモは持ち歩かせるとなくすかもしれないので(ADHDはなくしものの天才)、本人の机の目立つところとかに置いときます。
1個作業が終わったら、机に戻ってメモを確認。読み終わったメモはごみ箱に捨てて、作業に向かいます。
この際、口頭で別の仕事を頼むと、せっかく読んだメモの内容がどっか言ってしまいます。
新たに仕事を頼みたいときは、メモを書いてもとからあるメモと一緒に置いときましょう。
②指示が伝わってない
なぜか、こっちの意図したことと違うことをやることがある発達障害者のみなさん。「この書類をあっちへ持ってって」と言ったら違う部屋に持っていったり。「これ捨てといて」って言ったら大事な書類を間違えて捨てちゃったり。
なんで指示がちゃんと伝わらないんだろう、とお困りのあなた! とっておきの方法をご紹介しましょう!
ズバリ、ズバリ、「指示語をなくす」!
指示語とは、「あれ」「こっち」「そこ」みたいな言葉のこと。
発達障害者はこの指示語の解釈が苦手です。
あと「いっぱい」とか「きちんと」とか「しこたま」とか「しっかり」とか「ちょっと」とか「はっきり」とか「まあまあ」とか「やや」とか、
なんとでも解釈できる副詞が大の苦手です。
日常会話に入ってるぶんは平気ですが、「指示」にこれらの言葉を入れられると、解釈に困ります。
例えば、「それ、あっちに少しもってって」と言われたら、ほぼ確実にぼくはこう聞き返すでしょう。
「どれをどこにどれくらい?」
そう聞くと、たいていの定型の皆さんは「それくらい言わなくてもわかるだろ。状況読めよ」
と思うらしいです。
一方こっちは、「なんで家族でも恋人でも親友でもない、単なる同僚に過ぎないこいつと俺の間に、暗黙の了解が成立するってカン違いしてんだよ、キモチワルイナ」と割と本気で考えます。
「指示語」や「副詞」のように、なんとでも解釈できる言葉はなるべく使わないようにしましょう。
要は、できる限り具体的な、他の解釈の余地などない指示を出すこと。と言っても難しいので、まずは指示語と副詞をなくすことから、言葉遊びだと思って始めてみましょう。
③なんでも先延ばしにする
すぐ忘れるくせに、言われたことを「後で~」と先延ばしにしてしまう発達障害者、とくにADHDの皆さん。
脳内物質の関係から、ADHDはぎりぎりにまで追い込まないとやる気が出ないのですが、そうはいってもやっぱりすぐにやらないのはよくない。
言われたことを何でも後回しにされて困ってるあなた! とっておきの方法をご紹介しましょう!
個々でもやることはさっきと一緒。できるだけ具体的に!
簡単です。「何分以内」という期限を設ければいいのです。短いけど無理のない締め切りを設定してあげる。
急いでなくても「何分以内」って言ってあげましょう。じゃないと、いつまでたっても先延ばしです。
④作業効率が悪い
とにかく見ていてイライラする。もっとこうすればいいのに、ああすればいいのに。あ~、いらいらする。
そんなフラストレーションがたまっているあなた、とっておきの方法をご紹介しましょう!
ズバリ、手の抜き方を教えてあげる。
特にアスペルガーに顕著なのですが、発達障害者は物事を額面通りに受け止めます。
マニュアルを渡されたら、書いてあることはすべて額面通りに実行します。
素晴らしいことですね。僕はバイト先で言われたことをすべて額面通りにやろうとしたら、こう叱られました。
「全部まじめにやってたら時間内に終わらないから、状況見てところどころ省いてやって」
まじめにやってたら叱られたのです。
こういう傾向は、特にアスペルガーの人に強いですね。
アスペの場合、とにかく不正、手抜きが大っ嫌い!
一方、ADHDの場合、「物事の優先順位が付けられず、どれを手抜きで、どれを力を入れてやればいいかの判断がつかない」というのがあります。
そこで、「マニュアルに赤線で書いてあげる」
本当に重要な部分は赤線をあらかじめひいといて、「時間がないから赤線のとこだけやって」と指示をしてあげてください。くれぐれも「状況見て自分で判断して」などと言ってはダメです。
最後に、発達障害者と付き合ううえですごい大事なことを教えます。
それは、極力怒らないこと。怒鳴らないこと。
難しいかもしれませんね。見ててイライラするのは、本人もわかっています。
しかし、発達障害者というのは子供のころから発達障害者なので、「何度言ったらわかるの!」「なんでできないの!」「なんでやってないの!」的な叱責をほぼ毎日受けて、トラウマになっています。
毎日殴られながら育った人が、暴力がトラウマになるのと一緒です。基本的に「怒られながら育ったせいで自己評価が低い」と言われています。打たれ弱いです。
それでも、発達障害者を見ていていらいらした時は、この言葉を思い出してみてください。
自分の意志で発達障害者になったやつは、歴史上、一人も存在しない。
そして、あなたが発達障害者にならずに済んだ理由はただ一つ、「神様の気まぐれ」意外に存在しない。
本日は雪ということで、おうちにこもって映画鑑賞。
「午後のロードショー」で「X-MEN」を鑑賞。
わたくし、「X-MEN」や「スパイダーマン」のようなアメコミ由来のアクション映画が、
……まあまあ好きです。まあまあですね(ふつう、「大好きです」という流れ)。
アメリカのアクションものって、すぐ恋愛ものに持っていこうとするところがあまり好きじゃない。その点、仮面ライダーはそういった描写がほとんどないから、「この二人、もしかして……」などと妄想する余地があって面白いのです。
とはいえ、子供のころ読んでいた「てれびくん」になぜか「X-MEN」が取り上げられてて、かぎ爪と驚異の再生能力を持つウルヴァリンとか、目から光線を出せるサイクロプスとか、テレパシーが使えるプロフェッサー・Xとか、なんとなく知ってるのですよ。
しかし、このX-MEN、調べてみるとどうやらただの万国でたらめ人間ショーではないみたいで。
突然変異によって特殊な力を持つミュータント。彼らはその能力のせいで、人間からおそれられ、迫害されてきた。
人間との共存を望むプロフェッサー率いるX-MENと、人間との決別を主張するマグニートー一派。これはいわば穏健派と過激派の戦い。プロフェッサーをキング牧師に、マグニートーをマルコムXに例えることもよくあるとか。
そのような構図になっているのは、どうやらX-MENが始まった1963年当時盛り上がっていた黒人が自分たちの権利を求めた公民権運動が反映されているからなんだとか。
また、ミュータントへの差別の描写がLGBT差別に似ているらしく、当事者の方が見ると、LGBT問題の暗喩に見えるのだとか。
マイノリティの人が見ると、単なるヒーローものではなく、そのマイノリティを反映した作品という視点で見れる。それが「X-MEN」。
すなわち、
ADHDの人間が見ると、まるでADHDのことを書いたような映画に見える!ということです。
今回のテーマはずばり、「ADHD的X-MENの感想」です。
ここから先は、プロフェッサー・ノックと呼びたまえ(笑)。
ADHD的チェックポイント① 学校になじめない
ミュータントを迫害する上院議員に、変身能力を持つミュータント「ミステイク」が襲撃するときのセリフ、「お前のせいで、私は学校に行けなかった!」
ADHDの子供でも、学校になじめない子供は多いです。特に多動性・衝動性が強いジャイアン型。
ジャイアン型はじっとしているのが苦手なので、授業中に勝手に出歩くなどの「問題行動」(学校側の視点で言えば)が多いのです。
また、注意欠陥が多いのび太型も、要領が悪いため、いじめの対象になる可能性が高いかも。
X-MENの「恵まれし子らの学園」みたいにADHDの子だけの学校を作れ!とまでは言わないけど、何らかの配慮は必要だと思います。
ADHD的チェックポイント② 能力のコントロールが難しい
以前にも書きましたが、ADHDは能力です。そう思わないと、やっていけません。
ADHDという能力
能力名「不安定な天才(アンバランスギフト)」です(笑)。
ミュータントと「不安定な天才」の共通点。それは、
能力のコントロールが難しいということ。
X-MENでは度々、能力の制御ができなくて……、みたいな描写があります。
同じように、ADHDの能力である「過集中」と「発想力」はなかなかコントロールができないのです。
過集中に関しては、集中を制御できないから過集中というくらいで。
また、発想力については制御できないというよりは、「どうやっているかわからない」。
ADHDが人からほめられるような才能っていうのは、学校で教わったり、影でこっそり練習しているようなものではなく、何となくできちゃってるもの(もちろん、能力の代償として、どんなに頑張ってもできないことの方がたくさんあります)。
つまり、本人もどうやっているのかわかっていない! なんでできちゃうのかがわかってない! 何がウケてて、なんで褒められてるのかがわかってない!
「教えて」と言われても、本人も困るわけです。どうやってるかわかってないから。サイクロプスが「目からビームを出す方法を教えてくれ」と言われているようなものです。
「こっちが知りたいわ! なんで俺、目からビーム出るんだよ!」
ADHD的チェックポイント③ 社会から迫害される!
X-MENでたびたび描かれるのが、社会からの迫害。
これはADHDもひしひしと感じているわけですよ。
とにかくまぁ、簡単な仕事ができない!
言われたことができない。段取りが取れない。ミスが多すぎる。何度言っても治らない。
そのせいで、職場は正社員・バイト関わらず、肩身の狭い思いをしているのです。
表だってヘイトスピーチをされてるわけではないけれども、「冷たい視線」ってやつをひしひしと感じて日々生活をしているわけです。
ここからは、炎上覚悟。
今年、とある障害者施設で多くの障害者の方が殺害されるという、痛ましい事件がおきました。
「障害者は殺さないといけない」みたいな主張をした犯人に対し、多くの人が「そんなの間違っている!」と声を上げました。
そんな話を聞くたびに、正直ぼくはこう思っていたのです。
「ウソつけ、ボケ!」
障害者に人権があるだぁ?
お前ら、思ってもないことを言うんじゃない!
そういうよい子ちゃんなセリフは、職場やバイト先で、ADHDをはじめとする発達障害者に
「邪魔」
「使えない奴」
「早く辞めないかな」
「職場からいなくなればいいのに」
という視線や言葉を投げかけたことがない人に口にしてほしいものです。
ADHDをはじめとした発達障害は、なかなか外から気づかれることがないし、そういう人たちがいることすら知らない人も多いので、
僕の実感では、こういう視線を投げかけてくる定型発達者は、かなりいます。
もちろん、僕らに反論するチャンスなんてありません。だって、仕事できないんだもん。
そんな定型の皆さんが、痛ましい事件が起こった時だけ「障害者にだって人権があって、それを排除していいなんてことは絶対にない」だなんて教科書的みたいなことを言われても、
ドン引きするだけなのです。
僕はあの事件の犯人はかなり極端だっただけで、障害者を排除しようという感情は、障害者が身近な人を除き、誰しも少しずつ抱いているものだと思っています。
そういう視線を感じながら、仕事をしてきました。
なぜ、平日の昼間からおうちで映画が見れる仕事をしているかって?
どっかに通って、みんなで協力する仕事をすると、「そういう目」で見られるからです。
普段は障害者を邪魔者扱いすることに罪悪感を抱かないくせに、こういう痛ましい事件が起きた時だけ、普段をすっかり忘れて「犯人が許せない」とかいうやつが、
僕は許せないのです。
もちろん、僕も24歳の時に初めて自分がADHDだと知ったので、それ以前にはそんな目で障害者を見たことだってあるでしょう。
だから、普段のふるまいをすっかり忘れて「犯人が許せない」などとのたまうやつには、こう言ってやりたいのです。
「あの事件の犯人は、僕であり、おまえだよ」
今回のまとめ
・ADHDにとって、学校教育は課題である。
・ADHDの能力は、コントロールが難しい。
・ADHDは「冷たい視線」に日々さらされて生きている。まあ、どこのマイノリティでも同じでしょう。
警備員をしていた時、30分の休憩時間の楽しみが、現場の施設の中にあったコンビニで漫画を立ち読みすることだった。
しかし、あのころ、2013年ごろか。どういうわけか流行りなのか、暗い漫画ばかりコンビニの本棚に並んでいた。
ゾンビウイルスが発生し、パニックに陥るマンガとか。どっかの建物に監禁された人たちが理由もわからずに殺しあう羽目になるマンガとか。希望もへったくれもないいじめの漫画とか。
謎の孤島で化け物から逃げ回るマンガとか。超自然的な力で次々クラスメートが死んでく漫画とか。
そういう漫画しかないから仕方なく読んでいたけど、 読んでも読んでも嫌な気分だけが残り、げっそりした。いつしかそういう漫画を遠ざけるようになった。
はっきり言えば、僕はそういう悪趣味なマンガが大っ嫌いだ。
もちろん、そういうジャンルが好きな人がいることを否定するつもりはないし、いろんな漫画がある中で、そういったジャンルがあるのもとやかく言うことではない。人から見れば、僕の好きな作品の方が悪趣味に見えることもあるだろう。
ただ、あまりにもそういった漫画が多すぎやしないか、とも思う。ああいったジャンルは本来、「アングラ」と呼ばれるもので、コアなファン層をターゲットとしたものなのではないのか、などと思うも、本屋に行くたびに次から次へと新作が生まれ、平積みされ、映像化されていくああいったジャンルの漫画を見るたびに、おかしいのは僕の方かとあきらめたりもしていた。
Mr.Childrenの「HERO」という曲の2番の出だしにこんな歌詞がある。
「ダメな映画を盛り上げるために、簡単に命が捨てられていく。違う、僕らが見ていたいのは、希望に満ちた光だ」
この歌詞を聞いたときは、「そうか、僕が好きなHUNTER×HUNTERはダメなマンガだったんだ」などと冗談交じりに思ったものだが、それにしても人が簡単に死ぬ漫画が増えすぎたと思う。
「何かが違う」と思いつつも、何が違うのかちゃんと言葉にできず、そう言ったジャンルの漫画が市民権を得ていくのを見て、「違うのは僕の方か」などと思ったりもした。
そういった漫画をたまには手に取ることもあったが、たいていはげっそりとするだけだった。
読み進めればもしかしたら感動的なシーンもあるのかもしれないが、まず、そこまで読み進めようとも思わない。1巻の半分ぐらいでげっそりする。
「東京喰種」ぐらいか、唯一ハマッたのは。たまたま立ち読みして、「あ、思ったほど暗くないかも」と思ったのが読み始めた理由だった。
正直、ああいった漫画は何が楽しいんだろう、と思っている。
誤解してほしくないのは、「何が楽しくてああいった漫画を読んでいるのだろう」といった意味で書いたわけではない。
絶望的な状況での人間の行動や裏切り、駆け引き、その中でなお光る純粋な愛や友情、先の読めない展開など、そこに魅力を感じる人がいることぐらいわかっていて、単に好みの問題に過ぎないこともわかっている。
僕が言いたいのは「何が楽しくてあんな漫画描いているんだろう」ということだ。
どのページもゾンビ、死体、阿鼻叫喚、よくわかんないグロいクリーチャーのオンパレード。次々と人が死に、絶望的な話の展開。
何が楽しくてこんなストーリー考え、何を伝えたくて書いてるんだろう。やっててそのうち発狂しないのかしら、などと思う。
割と最近もそんな漫画をブックオフで読んだ。怒られるといやなのでタイトルは出さないが、
カエルのお面をかぶった男が猟奇殺人を繰り返していく話だ。怒られるといやなので、タイトルは出さない。
最初はどうなるんだろうと興味を引いたが、3巻最後まで読んで思ったことが「この漫画、中身がない」。
「買わないでよかった」が正直な感想だった。
これはかなり評判悪いだろうと思って調べてみたところ、
これが高評価が多い! 怒られるといやなのでタイトルは出さないが、今度、小栗旬主演で映画化されるという。
やはり、僕がおかしいらしい。
そんなある日、NHKで宮崎駿の特番を見ていた。
これまで手書きにこだわってきた宮崎駿が、CGに興味を持ち、クリエイターを読んでCGの勉強を始める。
かなり話題になったので知ってる人も多いと思うが、そこでこんなシーンがあった。
頭を足のように動かし、気持ち悪い動きをするCGの映像を見せられた宮崎さん。「ゾンビゲームなどに使える」という説明を受けたが、宮崎さんはそのCGに対しこう言った。
「生命への冒涜」
その言葉を聞いたとき、自分の中にあったもやもやが晴れた気がした。
ゾンビとか、猟奇殺人鬼とか、処刑ゲームとかそういうのと、「嫌い」「悪趣味」という感情の間にぽっかりと空いていたスペースに、「生命の冒涜」というピースがピタリとはまったように思えた。
ゾンビの手によって、猟奇殺人鬼の手によって、超自然的な何かの手によって、びっくりするほど簡単に、ごみでも捨てるかのように漫画の中で人が殺されていく。
そういった犠牲者たちは死の間際に「死にたくない」だの絶望的なせりふを吐くものだが、それが命の尊さにつながるというよりは、単に読み手の絶望を煽る演出の一部にすぎない。
ダメなマンガを盛り上げるために、簡単に命が捨てられていく。
次々と絶望的な状況が主人公たちに襲いかかり、一人、また一人と死に、あるいは人としての一線を越えてしまう。
それを「この先どうなるんだろう」と手に汗握りながら読む読者。
ただ、「何がダメなのか」を言葉にすることができず、もやもやしていた。それを、宮崎駿はたった一言で射抜いたのだ。
「生命への冒涜」
ああいった漫画が好きになれないのは、生命への畏敬の念がみじんも感じられないこと。読み進めればそういったシーンもあるのかもしれないが、何度も言うが、そこに行きつくまでにげっそりして、ぼくは読み進められない。
命も、死も、絶望も、血も、臓物も、断末魔も、すべては読み手を煽る演出の一つ。それで何かを伝えたい、といったものは砂粒ほども感じられない。
これを、「生命への冒涜」と呼ばずになんとする。
そして改めて、僕が出せなかった答えを知っていた宮崎駿は、偉大な人だと思い知らされたのであった。
「天空の城ラピュタ」、「となりのトトロ」、「もののけ姫」、古くは「風の谷のナウシカ」、「未来少年コナン」など、文明、自然、戦争などのテーマを通して命の尊さを一貫して描いてきた。宮崎駿らしい一言だ。
「僕らが見ていたいのは、希望に満ちた光だ」(Mr.Children「HERO」より)