死にたがりの楽天家・自由堂ノックがが裁判傍聴やADHD、仮面ライダー、刀使ノ巫女などをテーマに書きます。
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警備員をしていた時、30分の休憩時間の楽しみが、現場の施設の中にあったコンビニで漫画を立ち読みすることだった。
しかし、あのころ、2013年ごろか。どういうわけか流行りなのか、暗い漫画ばかりコンビニの本棚に並んでいた。
ゾンビウイルスが発生し、パニックに陥るマンガとか。どっかの建物に監禁された人たちが理由もわからずに殺しあう羽目になるマンガとか。希望もへったくれもないいじめの漫画とか。
謎の孤島で化け物から逃げ回るマンガとか。超自然的な力で次々クラスメートが死んでく漫画とか。
そういう漫画しかないから仕方なく読んでいたけど、 読んでも読んでも嫌な気分だけが残り、げっそりした。いつしかそういう漫画を遠ざけるようになった。
はっきり言えば、僕はそういう悪趣味なマンガが大っ嫌いだ。
もちろん、そういうジャンルが好きな人がいることを否定するつもりはないし、いろんな漫画がある中で、そういったジャンルがあるのもとやかく言うことではない。人から見れば、僕の好きな作品の方が悪趣味に見えることもあるだろう。
ただ、あまりにもそういった漫画が多すぎやしないか、とも思う。ああいったジャンルは本来、「アングラ」と呼ばれるもので、コアなファン層をターゲットとしたものなのではないのか、などと思うも、本屋に行くたびに次から次へと新作が生まれ、平積みされ、映像化されていくああいったジャンルの漫画を見るたびに、おかしいのは僕の方かとあきらめたりもしていた。
Mr.Childrenの「HERO」という曲の2番の出だしにこんな歌詞がある。
「ダメな映画を盛り上げるために、簡単に命が捨てられていく。違う、僕らが見ていたいのは、希望に満ちた光だ」
この歌詞を聞いたときは、「そうか、僕が好きなHUNTER×HUNTERはダメなマンガだったんだ」などと冗談交じりに思ったものだが、それにしても人が簡単に死ぬ漫画が増えすぎたと思う。
「何かが違う」と思いつつも、何が違うのかちゃんと言葉にできず、そう言ったジャンルの漫画が市民権を得ていくのを見て、「違うのは僕の方か」などと思ったりもした。
そういった漫画をたまには手に取ることもあったが、たいていはげっそりとするだけだった。
読み進めればもしかしたら感動的なシーンもあるのかもしれないが、まず、そこまで読み進めようとも思わない。1巻の半分ぐらいでげっそりする。
「東京喰種」ぐらいか、唯一ハマッたのは。たまたま立ち読みして、「あ、思ったほど暗くないかも」と思ったのが読み始めた理由だった。
正直、ああいった漫画は何が楽しいんだろう、と思っている。
誤解してほしくないのは、「何が楽しくてああいった漫画を読んでいるのだろう」といった意味で書いたわけではない。
絶望的な状況での人間の行動や裏切り、駆け引き、その中でなお光る純粋な愛や友情、先の読めない展開など、そこに魅力を感じる人がいることぐらいわかっていて、単に好みの問題に過ぎないこともわかっている。
僕が言いたいのは「何が楽しくてあんな漫画描いているんだろう」ということだ。
どのページもゾンビ、死体、阿鼻叫喚、よくわかんないグロいクリーチャーのオンパレード。次々と人が死に、絶望的な話の展開。
何が楽しくてこんなストーリー考え、何を伝えたくて書いてるんだろう。やっててそのうち発狂しないのかしら、などと思う。
割と最近もそんな漫画をブックオフで読んだ。怒られるといやなのでタイトルは出さないが、
カエルのお面をかぶった男が猟奇殺人を繰り返していく話だ。怒られるといやなので、タイトルは出さない。
最初はどうなるんだろうと興味を引いたが、3巻最後まで読んで思ったことが「この漫画、中身がない」。
「買わないでよかった」が正直な感想だった。
これはかなり評判悪いだろうと思って調べてみたところ、
これが高評価が多い! 怒られるといやなのでタイトルは出さないが、今度、小栗旬主演で映画化されるという。
やはり、僕がおかしいらしい。
そんなある日、NHKで宮崎駿の特番を見ていた。
これまで手書きにこだわってきた宮崎駿が、CGに興味を持ち、クリエイターを読んでCGの勉強を始める。
かなり話題になったので知ってる人も多いと思うが、そこでこんなシーンがあった。
頭を足のように動かし、気持ち悪い動きをするCGの映像を見せられた宮崎さん。「ゾンビゲームなどに使える」という説明を受けたが、宮崎さんはそのCGに対しこう言った。
「生命への冒涜」
その言葉を聞いたとき、自分の中にあったもやもやが晴れた気がした。
ゾンビとか、猟奇殺人鬼とか、処刑ゲームとかそういうのと、「嫌い」「悪趣味」という感情の間にぽっかりと空いていたスペースに、「生命の冒涜」というピースがピタリとはまったように思えた。
ゾンビの手によって、猟奇殺人鬼の手によって、超自然的な何かの手によって、びっくりするほど簡単に、ごみでも捨てるかのように漫画の中で人が殺されていく。
そういった犠牲者たちは死の間際に「死にたくない」だの絶望的なせりふを吐くものだが、それが命の尊さにつながるというよりは、単に読み手の絶望を煽る演出の一部にすぎない。
ダメなマンガを盛り上げるために、簡単に命が捨てられていく。
次々と絶望的な状況が主人公たちに襲いかかり、一人、また一人と死に、あるいは人としての一線を越えてしまう。
それを「この先どうなるんだろう」と手に汗握りながら読む読者。
ただ、「何がダメなのか」を言葉にすることができず、もやもやしていた。それを、宮崎駿はたった一言で射抜いたのだ。
「生命への冒涜」
ああいった漫画が好きになれないのは、生命への畏敬の念がみじんも感じられないこと。読み進めればそういったシーンもあるのかもしれないが、何度も言うが、そこに行きつくまでにげっそりして、ぼくは読み進められない。
命も、死も、絶望も、血も、臓物も、断末魔も、すべては読み手を煽る演出の一つ。それで何かを伝えたい、といったものは砂粒ほども感じられない。
これを、「生命への冒涜」と呼ばずになんとする。
そして改めて、僕が出せなかった答えを知っていた宮崎駿は、偉大な人だと思い知らされたのであった。
「天空の城ラピュタ」、「となりのトトロ」、「もののけ姫」、古くは「風の谷のナウシカ」、「未来少年コナン」など、文明、自然、戦争などのテーマを通して命の尊さを一貫して描いてきた。宮崎駿らしい一言だ。
「僕らが見ていたいのは、希望に満ちた光だ」(Mr.Children「HERO」より)