久しぶりにADHDのお話です。
以前、こういう本を読んだことがあります。
視力の障害を持っている人が書いた本。タイトルは忘れました。
そこに書かれていたのは、「障害者にとって、障害そのものよりも、障害者を取り巻く社会のあり方の方が障害なんじゃないか?」みたいな感じ。細かいところは忘れました。
目が見えないことそのものが問題なのではなく、目が見えない人に不便なように作られている社会の方が障害としてその人を妨害。
耳が聞こえないことそのものが問題なのではなく、耳が聞こえない人に不便なように作られている社会の方が障害としてその人を妨害。
知的障害そのものが問題なのではなく、知的障害の人に不便なように作られている社会の方が障害としてその人を妨害。
ADHDそのものが問題なのではなく、ADHDの人に不便なように作られている社会の方が障害としてその人を問題。
実際、軽度のADHDにとって、ADHDそのものよりも、「要領よく」を求めてくる社会の方がはるかに障害なのです。
「一度に二つのことができない」ということそのものよりも、「一度に二つのことを当たり前のように求めてくる社会」の方が障害として立ちはだかる。
「空気が読めない」ということそのものよりも、「空気を読むことを当たり前のように求めてくる社会」の方が障害として立ちはだかる。
「気配りができない」ということそのものよりも、「気配りをすることを当たり前のように求めてくる社会」の方が障害として立ちはだかる。
「能力のバランスが悪い」ことそのものよりも、「一つに特化するのではなく、バランスよくすることを当たり前のように求めてくる社会」の方が障害として立ちはだかる。
「納得しないと行動できない」ことそのものよりも、「納得できないことをやらせることを当たり前のように求めてくる社会」の方が障害として立ちはだかる。
人によってはそれを「甘え」というのかもしれない。しかし、これはほんの一例にすぎません。
ADHDに限らず、世の中、「ご親切にも」多数派が使いやすいように作られたものが多すぎる!
多数派の便利は、少数派の不便なのです。
先ほど挙げた視覚障碍者の方が書いた本でも、「バリアフリーというけどもともとバリアが多すぎるんだよ! なんで駅の文字あんなに小さいんだよ。視力弱い人は読めないよ。もうちょっと大きくたっていいじゃない」みたいなことが書いてありました。
「バランスよく」を当たり前のように求めてくるくせに、そこんとこのバランスが悪すぎることに、ほとんどの人が気付かずに過ごしている。
ぶっちゃけた話、社会が「当たり前」のように求めてくることをやめたら、もはやADHDは「障害」ではないとさえ考えます。
むしろ、ADHDからしてみれば、定型発達者の方が「障害」に映るときもあるのです。
「空気を読まないと生きていけない障害」
「気配りしないと生きていけない障害」
「能力のバランスはいいけど、器用貧乏障害」
「計画を立てないと何もできない障害」
「納得できないことでも『仕方ない』と自分をごまかしちゃう障害」
「常識はあるけど、発想力がない障害」
「あらら、ADHDなの。かわいそうに。大変だね~」と思ったあなた。
僕も全く同じ視線で、あなたを見ています。
「あらら、定型なの。かわいそうに。大変だね~。空気読まないと生きていけないんでしょ?」
汝、決して人を憐れむことなかれ。汝もまた、憐れまれている。
ADHD当人を変える、というのはなかなかに難しい。でも、人の考え方を変えるのは、そんなに難しくないはず。
万人にとっての便利などあり得ないのだから、そろそろ多数派のことだけを考えるのはやめませんか。
今回のまとめ
・多数派の便利は、少数派の不便。
・社会が何を「当たり前」とするかで、障害者は作られる。
・汝、決して人を憐れむことなかれ。汝もまた、憐れまれている。