「死体遺棄」という言葉には無限の可能性がある。
地方の裁判所ではなかなか「殺人事件」にはお目にかかれない。京都のように毎週のように殺人が起こる場所でない限り(それ、「科捜研の女」の話や)
だからこそ、「死体遺棄」という事件には可能性があるのだ。
ニュースを見ていると、明らかにこいつが殺したんだろ、って思う犯人が「死体遺棄」で逮捕されることがある。「殺した」っていう証拠はまだないけど、とりあえず「死体を捨てた」ってことは間違いないので、とりあえず死体遺棄で逮捕しちゃおう、というわけだ。
そうかと思うと、年金目当てで死んだ家族を床下に隠して、死んだことも隠して年金を受け取り続ける、という「死体遺棄」もある。
このように、死体遺棄には無限の可能性があるのだ。
だいぶ不謹慎なことを言っていることぐらいわかっている。だが、ある程度不謹慎さがないと、裁判傍聴なんて趣味は続けられない。
だいぶ前置きが長くなったが、今回の事件は「死体遺棄」だ。
果たしてどんな事件なんだろうと傍聴席に入ると、報道の数もいつになく多い。
被告は女性だった。悪人には見えない。
そして、検察官が事件の内容を陳述した。
事件のあらましは、「駅のコインロッカーに赤ん坊の遺体を捨てた」というものだった。
これは、悲壮感漂う話だぞ。
実際、事件に至る経緯は何とも陰惨なものだった。
被告の女性は恋人の子供を身ごもるが、なんとこの恋人、ほぼ同じタイミングで別の女性と結婚する。絵に描いたクズである。おそらく傍聴人のだれもが、このクズの所業を聞いて「おい、ここに呼んで一発殴らせろ」と思ったに違いない。
クズ男は認知しない援助しないと言い切り(一発殴るじゃ足りない)、被告の女性は完全に捨てられてしまう。
家族にも相談できずに、自宅で出産するものの死産。絶望して自殺を考えた被告は駅のロッカーに遺体を入れて自殺を試みるも死にきれず、現在に至るとのこと。被告のプライバシーに引っかからないようにざっくりと書くとそんな感じ。
この裁判を聞いて思うのが、
この人、なんか悪いことした?
確かに、死体遺棄は犯罪である。実際、駅ではコインロッカーから異臭がすると騒ぎになったらしい。腐りかけた赤ちゃんの死体を処理する側としてみればたまったもんじゃない。迷惑である。
だから、悪いことをしたと言えばしたのだけれど、でもやっぱり目の前の被告は「罪人」には見えない。
裁かれるほどの悪いことをしたようには思えない。
彼女がなぜコインロッカーに死体を入れたのかというと、別に異臭騒ぎを起こして困らせてやろうとかそういう悪意はなく、自殺するにあたり遺体の処理に困ってやったことである。自殺するにあたり、そんなことしたら駅員さんが困るとかを考える余裕がなくなっていた、もう周りが見えなくなってしまっていたのではないだろうか。
じゃあどうして赤ちゃんの遺体を捨てて自殺しなければいけないのか、と元をたどっていくと、彼女の孤独が裁判では浮き彫りになっていく。誰にも相談できなかった孤独。誰にも打ち明けられなかった孤独。誰の助けも借りれなかった孤独。
でも、孤独は罪じゃないだろう。原因が孤独だからって、「お前は孤独だから裁かれるのだ!」なんてなんだかおかしい。
むしろ、裁かれるべきはもっと別にいるだろう、と思うのだ。たぶん、クズ男もこの一件で当然警察からの取り調べは受けただろうし、そのことが奥さんにばれれば幸せな新婚生活は吹っ飛び、ざまぁみろ展開にはなるだろう。なっているのだろう。なっていていほしい。なってなければ困る。
でも、とりあえず、クズ男を出廷させて、一発殴らせてほしい。