日本の刑事裁判で起訴された被告が有罪になる確率は、99.9%と言われています。
つまり、判決で「被告人は無罪」と言い渡される確率は0.1%しかない。1000回裁判を傍聴して、やっと巡り合えるわけです。
そして、その0.1%が僕の目の前で起こりました。1000回も傍聴してないのに。
ある暴行事件の判決で、裁判官が「被告人は無罪」と言い渡したのです。
事件自体はシンプルなものでした。駅前でちょっとしたいざこざが起こり、警察官が仲裁に入っていたところ、警察官の目の前でA氏がB氏を突き飛ばして、B氏が後ろに倒れた、というものでした。A氏はその場で現行犯逮捕。しかし、A氏は一貫して、「B氏に指を指されたから払っただけ。そしたら、B氏が不自然に倒れた」と犯行を否認していました。
警察官C、警察官Dが、「突き飛ばしたところを見た」と証言している一方、A氏の息子のE君はA氏と同じく「指を刺されたから払っただけ」と主張していました。
まず、裁判官は二人の警察官の証言の信憑性について触れました。
B氏が指を指して、A氏が手を動かして、B氏が倒れるまでほんの数秒。つまり、ほんの数秒のことをちゃんと把握できず、B氏の「Aに突き飛ばされた!」という認識に引きずられた可能性があるのではないか、その場合、もっと信憑性のある証言・証拠があるのであれば、二人の警察官の証言がかなり怪しくなってくるのではないか、とのことでした。
なるほど。確かに、痴漢の冤罪事件で「私、見ました!」と証言する人の中にたまに「実はその人が見たのは『この人、痴漢です!』と言われて捕まっているシーンであり、犯行そのものは見ていなかった」なんて話があります。「この人、痴漢です!」の声に引きずられて、犯行まで見たかのように勘違いしてしまうんですね。
そして、裁判官は、もっと信憑性のある証言があったため、二人の警察官の証言が必ずしも正しいとは言えない、と結論付けました。
果たして、「もっと信憑性のある証言」とはいったい誰の証言か?
被告のA氏?
被害者のB氏?
それとも、A氏の息子のE君?
答えは、通りすがりのFさんの証言でした。
裁判所が最も重視したのは、野次馬の証言だったのです。
そして、Fさんは「B氏が指を指したのでA氏が払ったら、B氏が不自然に倒れた」と証言したのです。
なぜ、野次馬の証言がそんなに重要視されたのか。
まず、「当事者のだれとも関係がない」というのが重要視されました。つまり、誰かに都合の良いように証言を捻じ曲げる可能性が低い。
それでいて、B氏の「Aに突き飛ばされた!」の声とは全く別の証言をしているわけです。
裁判では「Fさんはちゃんとその瞬間を見ていたのか」が争点となりました。
この問題に対して裁判長は「普通の視力と集中力を持っていれば、ちゃんと見ていたはずだ」と結論付けました。
確かに、駅でいざこざが起き、お巡りさんまで出動していたら、
見るに決まってる。
さらに検察側は「F氏のいた場所からちゃんと見えていたのか」も問題にしていましたが、裁判長はこれも「F氏は少しでもよく見える場所に移動したはず」と結論付けました。
確かに、駅でいざこざが起き、お巡りさんまで出動していたら、
少しでも見やすい所に行くに決まってる。
F氏の証言を否定できない以上、二人の警官の証言は「B氏の証言に引きずられた」可能性を否定できない。
つまりは、A氏は完全な白だった、というよりは、「五分五分だけど、疑わしきは罰せずの原則にの取って」無罪となったわけです。
しかし、傍聴席にいたB氏と思われる男性は明らかに不服そうでした。何かをぶつぶつと言っていましたが、検察官が手でサインを送ってそれを制しました(傍聴人は私語禁止)。
とはいえ、検察官も首をひねっていました。まあ、無罪判決に納得できる検察官などいないと思いますが。
今回は無罪判決でしたが、まだ地裁なので、控訴される可能性があります。
ただ、それを決めるのは被害者であるA氏ではなく、検察官でもなく、
検察そのものです。お偉いさんとの話し合いの中で決められます。なぜなら、検察官は個人として裁判をやっているのではなく、「検察」という組織の代表として裁判をやっているからであり、決定権は個人ではなく検察という組織にあるからです。特に「無罪判決」なんて言う、検察の威信にかかわる問題の時は。
今回の裁判からわかること。
もし、何かのいざこざに巻き込まれたら、なるべく大声を出して喚きましょう。
そして、一人でも多くの野次馬を集めて、あとで証言してもらいましょう。