今日は12月24日である。アニメ「刀使ノ巫女」の登場人物、皐月夜見の誕生日であり、命日でもある。
刀使ノ巫女には魅力的なキャラクターが数多く登場するが、
夜見ほど考察のしがいがあるキャラクターはいない。
なにせ彼女は語らない。なにせ彼女は笑わない。夜見が何を考えているのか、何を感じているのか、セリフや表情から読み取るのがかなり難しいのだ。
ところが、序盤の糸見沙耶香のように無感情、空っぽなのかというとそうではない。夜見は夜見の確固たる意志のもと行動している。
ところが、
その確固たる意志がなんなのかわからない。
ここで、
皐月夜見というキャラクターについて改めて考えてみよう。
折神家親衛隊第三席。ウィキペディアによると年齢は「満15歳没」と書いている(泣ける表記だわ)。
秋田県出身。鎌府女学院出身。御刀は「水神切兼光」。流派は、死闘に動じず捨て身で敵を打つ「深甚流」。
実は、
夜見は刀使としての実力はさほど高くないと言われている。ではなぜ彼女が親衛隊に抜擢されたのかというと、
荒魂との親和性の高さだ。体内より放出した荒魂による索敵や攻撃を得意としている。初期設定の段階で『荒魂使い』という役割を担うキャラクターだった。
胎動編では親衛隊の一人として可奈美たちの前に立ちふさがるが、波乱編では真希と寿々花が可奈美たちと行動を共にするのに対し、夜見は高津学長やタギツヒメとともに行動し、
刀使の中で唯一、自分の意志で歪んだ道を突き進んでいく。
なにが彼女を突き進めるのか。なんのために? だれのために? 一切語ることなく夜見の物語は進んでいく。わかるのは、
夜見は無表情だが無感情ではない、確固たる意志のもと動いていることだけ。
夜見の目的が明かされたのは、第22話だった。自身を散々虐げてきた高津学長を助けに現れた夜見。だが、
夜見の体はすでに荒魂に侵食され、その命の灯火は消えかける寸前だった。
高津学長を助けた夜見は、学長から「お勤めご苦労様でした、夜見…」の言葉を聞くと、満足そうに微笑み、息を引き取ったのだった……。
元々、夜見は刀使としての才能に恵まれない、落ちこぼれだった。その夜見の荒魂への親和性に目を付け、実験台として抜擢したのが高津学長だった。
そうか、すべては高津学長のためだったのか……。
と最近まで僕は思っていた。「夜見ちゃんは高津学長のために行動しているんだ……。高津学長に報いることが夜見ちゃんにとっての幸せだったんだ……」と。
……本当にそうなのだろうか。
夜見にとっての最優先事項は、高津学長ではない?
もちろん、夜見は高津学長のために行動している。どんなに虐げられても「あの方の御為に」行動している。
でも、なぜ?
なぜ、あんなヒステリックおばさんのために?
結論から言うと、
夜見にとって高津学長は大事な存在ではあるが、最優先事項ではなかったのではないか。夜見にとって、もっと大事なことがあったのではないか。
そう考えるようになったきっかけが、夜見が結芽の墓参りをするシーンだった。
そこで夜見は「燕さんは幸せだったと思います」と語っている。早逝したことに対する無念はあれど、
結芽は舞台に上がり、思うようにやれたのだから、と。
この言葉は、裏を返せば、
夜見にとっての幸せは、「舞台に上がること」であることを示唆しているようにも思えるのだ。
夜見にとっての幸せは「高津学長に報いること」ではなく、「舞台に上がること」なのではないか。
落ちこぼれだった夜見にとって、刀使として「舞台に上がること」すらつかめぬ夢だった。
しかし、
荒魂の人体投与技術が確立したことにより、夜見は刀使としての舞台に上がることができた。
だれがその技術を確立したと思う?
そう、偉大なる高津学長!
そして、誰が夜見を実験台に抜擢したと思う?
そう、偉大なる高津学長!
夜見にとっての幸せは、最優先事項は「舞台に上がること」であって、高津学長の存在はあくまでも「そのきっかけをくれた人」なのではないか。
この「舞台に上がることが夜見の幸せ」というのが、夜見を理解する上でのキーワードなのではないか。
なぜ、高津学長でなければいけないのか
「舞台に上がることが夜見の幸せである」、この前提のもと、夜見のセリフをもう一度見直していこう。
鎌倉での決戦の夜、高津学長のもとを離れた沙耶香と対峙した夜見は、「あなたはなぜ……」と沙耶香の行動が理解できないかのようなセリフを残している。
たぶん、「あなたはなぜ、高津学長の恩に報いないのか」と言いたかったのだろう。沙耶香があれだけ高津学長から目をかけられていればなおさらである。
だが、
夜見と沙耶香では決定的に立場が違う。
沙耶香は天才と言われた刀使である。高津学長のもとで刀使として力をつけ、任務をこなしてはいたが、たぶん、
伍箇伝のどこに入学していても、沙耶香はその才能を発揮していただろう。
沙耶香はおそらく高津学長に対して、完全に敵とはみなせない複雑な感情を抱いているように見える。なんだかんだ育ててもらった感謝は感じているのだろう。
だが、
沙耶香の感謝と夜見の恩義では、レベルが違う。
夜見は刀使としての才能には恵まれず、荒魂の力を得ることでようやく舞台に上がれた。
その荒魂投与に技術を確立し、夜見を抜擢したのは、
そう、偉大なる高津学長!
沙耶香にとっては、舞台に上がるきっかけは必ずしも高津学長でなくてもよかった。たまたま鎌府に入学したから、それが高津学長だったというだけである。
だが、
夜見にとっては、舞台へ上がるきっかけは高津学長以外ありえないのだ。ほかの学長はそんな違法技術持ってないし、相楽学長が技術を持っていても人体投与に踏み切れなかったのは作中見ての通り。たぶん、相楽学長は結芽のように延命目的じゃないと、自ら積極的な人体投与はできなかったのだろう。それを見越しての夜見の、第17話ラストのあの行動なのかもしれない。
夜見と真希はわかりあえない
第18話で夜見と対峙した真希・寿々花夫婦は、紫が健在であることを夜見に告げ、
高津学長の言いなりになることなどない、ともにまた紫に忠を尽くそうと呼びかける。
そこで夜見は初めて二人に笑顔を見せる。その理由が
「獅童さんも此花さんも、何もわかっていないから」。
夜見にとって忠を尽くす相手は紫ではなく高津学長であり、夜見はけっして言いなりになっているのではなく、
自らの確固たる意志で高津学長に付いている。親衛隊として同じ時を過ごしながら、この二人は何もわかっていない、という皮肉や自嘲を込めた笑みである。
と同時に、
「この二人は何もわかっていない」というのは、夜見がずっと感じていたことなのではないか。
真希は御前試合二連覇、寿々花は準優勝と、この二人は夜見と違い「実力で舞台に上がれる人たち」である。
実力で舞台に上がった二人と、まっとうなやり方では舞台に上がれなかった夜見。共に過ごすことでどうしても夜見は真希・寿々花との間の断絶を感じてしまっていたのではないか。
そう考えると、結芽の方が夜見としては近しいものを感じていただろう。結芽は才能にこそ恵まれたものの、病魔に侵され、荒魂で体をごまかさないと舞台に上がることができなかった。まっとうなやり方では舞台に上がれなかったのである。
実際、
真希と夜見では結芽に対する評価がまるで違う。第19話で真希が夜見に「結芽は幸せだったと思うか」と問いかけ、夜見がはいと答えたのを聞き、「やはり僕たちの進む道は違ってしまったようだ」と答えている。
真希にとっての結芽は悲劇だ。才能に恵まれながらも病魔に侵され、12歳の若さでこの世を去った。これを悲劇と呼ばずして何と呼ぶ。
だが、夜見にとってはさっき書いたとおり、早逝だろうが何だろうが、
舞台に上がれた結芽は幸せだったのだ。
この結芽に対する評価の違いが、真希と夜見の大きな断絶を物語っていて、きっと夜見は、ずっと前からこの断絶を感じていたのではないか。
どうなんでしょう……。
この問答の直後、寿々花が夜見に対し、「あなたは今、幸せ?」と問いかけている。
それに対しての夜見の答えは「どうなんでしょう……」。
このセリフ、とてもあいまいなセリフのため、
いろいろな解釈ができる言葉だと思う。以前、とじらじで夜見役の渕上舞さんがとても興味深い解釈をしていた。
一方、僕のこのセリフに対する解釈はこうだ。
夜見にとっての幸せとは、やっぱり舞台に上がることである。
そして現状、彼女は刀使としての舞台に上がっている。
だが、
その舞台への上がり方は「荒魂を注入する」という、歪んだやり方だった。
そして今なお、
舞台に上がらせてくれた高津学長への恩に報いるため、歪んだ道を進んでいる。
「舞台に上がる」という目的は叶った。そういう意味では幸せである。
だが、そのやり方は歪んだものだった。決して褒められるようなプロセスではない。
だから「どうなんでしょう……」。
目的は達成したものの、罪の意識もあったのかもしれない。
実際、夜見は自分の行動がゆがんでいると自覚している。第20話で相楽学長に対し、「どんなに醜く歪んでいてもこの道を選んだのは私たち自身。誰に裁かれるつもりもありません」と語っている。
自分の行動がゆがんでいるのは自覚しているのだ。それは、「高津学長とともに、タギツヒメ側につくこと」を指しているようにも読める。
だが、夜見が「高津学長は絶対」だと思っているとしたら、その高津学長の行動や、それに従う自分の行動を「醜く歪んでいる」などと思うだろうか。
僕はこのセリフは、
「荒魂の力で舞台に上がったこと」に対してのセリフなのではないか、と考えている。「舞台に上がる」という目的のために荒魂に手を出したこと、今でも使い続けていること、これらは夜見自身の目から見ても、醜く歪んだ行為なのだろう。
それでも、「舞台に上がる」という唯一絶対の目的のために、夜見は荒魂を受け入れ、使い続けた。
たぶん、夜見にそのことを正当化するつもりはないだろう。「そんなの間違ってる!」と言われたら、「はい、そうですね」と答えるかもしれない。
歪んだ道を選んだことを正当化するつもりも、言い逃れするつもりもない。その代わり、咎めつもりもないし、裁かれるつもりもない。
歪んだ道を選んでまで刀使としての舞台に上がった夜見であるが、彼女にそんな歪んだ道を指し示したのは誰だろうか。
そう、他でもない、偉大なる高津学長!
「刀使・皐月夜見」という存在は高津学長あってこそ。だとしたら、「刀使・皐月夜見」としての力は、すべて高津学長に還元するべきなのではないか。たとえ、高津学長が夜見からしてみても醜く歪んだ存在だったのだとしても。
「私の力であればご随意に……」というわけなのだ。
……と、ここまで書いてきたが、「やっぱり、夜見ちゃんて舞台に上がるうんぬんよりも、ただ高津のおばちゃんが好きだっただけなんじゃ……?」と書きながらもずっと思っており、そうとしか解釈できないシーンもいくつかある。
本当のところはやっぱり本人しかわからない。その本人が全然しゃべってくれないし、表情にもほとんど出さないから、刀使オタは推測し、解釈を深めるしかない。
時には人によって解釈が分かれ、「ああ、そういう考え方もあるよね」とか、「それは違うんじゃないかなぁ」とか、あーだこーだと議論を深める。
そうして、気が付けば夜見ちゃんの魅力にずぶずぶとはまっていくわけだ。
まあ、本当のところなにを考えていたのか、僕の解釈は正しいのかをもし夜見ちゃん本人にぶつけてみても、きっと、こんな答えが返ってくるだろう。
「どうなんでしょう……」