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自由堂ノックの「生きるは恥だが死に切れず」

死にたがりの楽天家・自由堂ノックがが裁判傍聴やADHD、仮面ライダー、刀使ノ巫女などをテーマに書きます。

『刀使ノ巫女』に見るスポーツの本質 ~魂のこもってない剣じゃ何も斬れない!~

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『刀使ノ巫女』に見るスポーツの本質 ~魂のこもってない剣じゃ何も斬れない!~



今期はアニメ「刀使ノ巫女」にはまっている。全24話のうち3話目からぼんやりとみていたが、「刀使ノ巫女」の感想記事の仕事を担当することになったので、改めて調べ直してみたところ、「このアニメ、めちゃくちゃ面白い!」ということに気づいて、そこから一気にはまった。「ぼんやり見ていた」と言っても主要な話の流れはわかっているし、DVDも借りて見ている。

今回はそんなアニメ「刀使ノ巫女」について2回にわたって書こうと思うのだが、まず、このアニメを知らない人が抱くであろう当然の疑問を解決しよう。

「刀使ノ巫女」って、なんて読むの?

これで「とじのみこ」と読む。「刀使(とじ)」は造語で、一発変換は不可能だ。まず、「かたなつかい」と入力して「い」を消去。「の」を変換して、「ノ」にして、最後に「巫女」と入力する。正直、クソめんどくさい。


アニメ「刀使ノ巫女」とは?

物語は現代日本。ただし、現実の世界と違い、「荒魂(あらだま)」と呼ばれる妖怪に近い存在と、「御刀(おかたな)」という特殊な刀と特殊な技を使って荒魂を鎮める「刀使」と呼ばれる少女たちが存在し、世間にも広く認知されている。

「刀使ノ巫女」は全24話。半年間放送され、物語は「胎動編」と「波乱編」の二部構成だ。

「胎動編」は刀使たちの頂点に立つ折神紫(おりがみゆかり)の見守る御前試合から始まる。決勝に進出した十条姫和(じゅうじょうひより)は紫の暗殺をもくろむが失敗。逆に殺されそうになるところを、決勝の対戦相手だった衛藤可奈美(えとうかなみ)に救われて、逃走する。姫和が紫を襲撃したのには理由があった。実は、紫の正体は人の姿をした荒魂だったのだ。

「胎動編」は第2話からは可奈美と姫和の逃亡劇を主軸に話が展開している。確固たる目的を持って紫を討とうとする姫和と、姫和が紫を暗殺しようとした時に紫が荒魂であることに気づいてしまった可奈美。強い意志と覚悟を持つ姫和と、成り行きで姫和を助け、姫和を一人にできないと行動を共にする可奈美。ほとんど面識も会話もない状態から逃亡生活を送ることになった二人は、逃走と戦闘を続けながらも友情を深めていく。

二人を追うのは折神紫率いる刀使を管理する組織「刀剣類管理局」と、折神家の親衛隊。しかし、彼らも紫が荒魂であることは知らず、ただ可奈美と姫和を「反逆者」として追跡する。その一方で、二人の逃走を支援する者たちも現れる。

可奈美の行動に理解を示す親友の柳瀬舞衣(やなせまい)、言われるがままに可奈美と姫和を捕えに来た糸見沙耶香(いとみさやか)、刀剣類管理局とは別の目的を持って二人を追跡する古波蔵エレン(こはぐらえれん)益子薫(ましこかおる)、可奈美と姫和に彼女たちを加えた6人は、やがて運命のの意図に手繰り寄せられるように集結し、さらに彼女たちの親世代の因縁も絡み、6人は荒魂に支配された管理局に立ち向かっていく。この6人が仲間になるというのは、オープニングとエンディングの映像を見れば5秒でわかる。

以上が「胎動編」の12話までの話。「波乱編」は「胎動編」から4か月後の新たな戦いを描く。


「刀使ノ巫女」
の魅力・剣劇アクション

「刀使ノ巫女」の魅力は何と言ってもアクションシーンである。高速で描かれる殺陣はアニメならではの表現と言える。

特に面白いのが、それぞれのキャラごとに戦い方が異なるところ。「刀持って戦うんならみんな大体一緒だろ?」とチャンバラの素人は考えてしまうが、意外とそうではない。

姫和は「迅移(じんい)」と呼ばれる刀使特有の高速移動を駆使した、一瞬の超加速を得意とする。そのスピードは弾丸よりも早い(本人談)。

一方、沙耶香も迅移を得意とする刀使なのだが、彼女の場合は持続的に高速移動し続ける戦法を得意とする。

薫は一番小柄ながら、重量級の御刀を操る。6人の中では最も火力が強い。

エレンは剣術に体術を加えた戦法を得意とする。剣で薙ぎ払うだけでなく、パンチやキックを織り交ぜた戦法を得意とする。

舞衣は集団戦で力を発揮する。6人で戦うときは、彼女が司令塔となる。

このように、一口にチャンバラと言っても、それぞれの得意戦法が違う。この違いがアクションに味を生み出している。

そして今回注目したいのが、主人公、可奈美である。


剣術バカ・可奈美から見るスポーツの在り方

可奈美の性格を一言で表せば剣術バカ。文字通り寝ても覚めても剣術のことを考えている。第1話の御前試合でも、可奈美の興味は試合の結果よりも、相手がどんな技を使ってくるか、どんな剣術が見られるかにむけられていた。

そして、可奈美が本来無関係だった姫和を助けた理由の一つも、「もう一度ちゃんと御前試合の決勝をしたいから」だった。常人にはちょっと理解しきれないほどの「剣術バカ」なのである。

何よりも剣術が好きな可奈美を見ていると、スポーツの在り方というものを考えさせられてしまう。

可奈美は剣術においてもっともっと強くなりたいと考える一方、ただ強さだけを、勝利だけを追い求めるのをよしとしない。

「波乱編」で可奈美に憧れる後輩の歩(あゆむ)という少女が登場する。強さのみを一途に追い求める歩に対し、可奈美は「出会ったときは一緒に剣術を重ねて一緒にちょっとずつ強くなったら楽しいんだろうなって思った」という一方で、強さのみを求める歩に対して「一緒には戦えない」と告げる。

また、可奈美は第1話の時点で御前試合の決勝に出場するほど、つまり、刀使の中でもトップクラスの強さを持っていたが、数々の戦いを経て波乱編では、相手が人間ならもはや敵なし、といったレベルにまで到達してしまう。

「剣術を極めて強くなること」だけが目的ならこれで万々歳なのだろうが、可奈美は母親の藤原美奈都に「相手がいなくていつもつまらなそう」と指摘されてしまう。強者ゆえの孤独、である。

「剣術を極めて強くなること」は可奈美にとっても目的の一つではあったが、それがすべてではないのだ。むしろ、可奈美が剣術を好きな理由は、強くなることよりも違うところにあると僕は考えている。

可奈美は、剣術を通して他者とコミュニケーションをとっているのだ。それが可奈美にとって何よりも楽しいのだろう。

そう思わせる箇所はアニメの中に幾度となく登場する。

御前試合で沙耶香と向き合った時、可奈美は沙耶香がどのような技を使うのかを常に考えながら戦っている。

一方、第3話で沙耶香が大人に言われるままに刺客として可奈美の前に現れた時、御前試合に沙耶香から感じていたものが感じられず、「そんな魂のこもっていない剣じゃ、何も斬れない!」と沙耶香の御刀を払っている。

このセリフは、自我もなく言われるままに行動するだけの人間とはコミュニケーションが取れない、ということを指しているのではないだろうか。

そして、このセリフは、第22話で今度は沙耶香が歩に対して言っている。可奈美たちと共に過ごすことで沙耶香は大人の操り人形を脱却し、成長を遂げていた。その沙耶香が今度は歩に対して、かつて自分が言われたセリフを放つことで、彼女の成長を見るものに感じさせる演出だ。ただ強さや勝利を求めることは剣術の本質ではない、相手のことを見ない剣では何も斬れない、という意味がこのセリフに込められているんだと思う。

可奈美が剣術を通してのコミュニケーションを重視していると思われる箇所はほかにもある。

第4話で、可奈美は御前試合の時、可奈美は姫和がどんな技を使ってくるかで頭がいっぱいだったのに対し、姫和は試合が始まるやいなや可奈美を無視し折神紫暗殺に向かった。そのことを可奈美は「実は頭に来ていた」と語る。これも、可奈美が「剣術を通したコミュニケーション」を大事にしているからこそ、無視されたことに頭に来たのではないか。

第18話では、高度な知能を有する神にも近い存在である大荒魂「タキリヒメ」が登場する。とある事情で防衛省によってかくまわれているタキリヒメにあった可奈美。合理的思考をするタキリヒメは、自分が人間を支配するのが一番合理的だと考えていたが、可奈美はタキリヒメが人間たちのことを見ていないと感じ、タキリヒメに人間のことをもっと見てもらおうと考える。

そしてタキリヒメに提案する。剣の手合わせをしてくれないか、と。

剣を交えればタキリヒメも人間のことを見てくれる。分かり合える。やはり、可奈美は剣術をコミュニケーションの手段と考えているとしか思えない。

その原点をたどれば、可奈美に最初に剣を教えたのは母親の美奈都だった。可奈美にとっては剣術は母とのコミュニケーションの手段だったのではないか。彼女が剣術バカとなったのは、そこに原点があるようにも思える。

剣術を通したコミュニケーションを大事にしているから、強くなりすぎて相手がいなくなってしまうと、寂しさを覚えてしまうのだ。

もしかしたら、スポーツというのは本来、そういうものなのかもしれない。

このブログでは度々、「スポーツによる情操教育は不可能」と書いてきた。

そんなにスポーツマンって奴は偉いのか?

スポーツで学べることなんてあるのか? スポーツの教育的価値を論破する!

横綱とか監督とか、スポーツを極めたはずの人が問題を起こす。だったら、スポーツに教育的な価値なんてないんじゃないのか。スポーツでルールとか礼儀を学ぶなんて実態の伴わない戯言なんじゃないのか。

スポーツをすればもちろん体は鍛えられる。健康になれる。しかし、スポーツで精神面まで鍛えられるということはないんじゃなかろうか。

そんな考えに一石を投じるのが、可奈美の剣術への向き合い方だ。相手がどんな技を使ってくるのか、相手をよく見て、よく聞いて、剣を交える。そうして相手と一緒に強くなっていけたら。それが可奈美の剣の根底にある。

スポーツとはコミュニケーションの方法のひとつなのだ。必ずしも言葉を交わすだけがコミュニケーションじゃないし、話術が得意なことがコミュ力なのではない。それぞれがそれぞれのやり方でコミュニケーションを測ればいいと思う。

むしろ、スポーツは音楽などと同じ、言語の壁をも超えるコミュニケーションの方法なのではないだろうか。

そのことを忘れた横綱がただ礼儀だけを重んじた結果、灰皿で後輩を殴りつける。そのことを忘れた監督が「タックルして潰せ、怪我をさせろ」なんて指示を出す。スポーツをやっている以上、勝ちたいと思うのは当然だし、そのためにも強くなりたいと思うのも当然である。だが、「スポーツを通じてコミュニケーションをとる」ということを忘れて、ただ勝利や強さだけを追い求めれば、それはチンピラのケンカと大差がない。

スポーツにおいてこの「相手とのコミュニケーション」が大前提なのではないだろうか。まあ、体操とかフィギュアスケートはいったい誰とコミュニケーションをとるのか、と聞かれると困るのだけれど、こういった演目系の競技でもやはりそう言ったコミュニケーションとしての側面はあるだろうし、球技や武道、競争といったタイプのスポーツならなおさらこの側面が強いと思う。

「スポーツはコミュニケーションの手段である」。このことを意識して初めて、スポーツは教育的価値を持つのではないか。初めて「スポーツによる情操教育」は成り立つのではないか。

しかし、現状、実力者も指導者もこの「コミュニケーション」を忘れ、強さや勝ち負け、表面的な礼儀作法に終始している。そんな奴らに僕はこう言いたい。

そんな魂のこもってない剣じゃ、何も斬れない!
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プロフィール

HN:
自由堂ノック
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/01
職業:
ライター、商業ラッパー
趣味:
旅、ラップ、特撮
自己紹介:
地球一周した人見知り。フリーライター、地下小説家、商業ラッパー、「さいたま野仏ミュージアム」館長。焼肉記事や特撮記事書いたり、小説『あしたてんきになぁれ』を書いてネット公開したり、野仏の研究したり、川の写真撮ったり、仮面ライダーと戦隊を見たり、TRPGをやったり、そんな毎日。

P R