全24話あるアニメ「刀使ノ巫女(とじのみこ)」の放送も23話が終わり、残すは最終回を待つのみ。
その最終回もどうやらただラスボスを倒してハッピーエンドという、ありがちな展開ではなく、最後まで予断を許さない。
最終回を迎えるに当たり、「終わっちゃやだ~! やだやだやだ~!」と駄々っ子のように喚いているところだが、終わってほしくないアニメに出会えるというのはとても幸せなことなのかもしれない。
今回は前回の
「『刀使ノ巫女』に見るスポーツの本質 ~魂のこもってない剣じゃ何も斬れない!~」に続く、「刀使ノ巫女」の感想&考察第2弾だ。前回が「スポーツ編」なら、今回は「SF編」と言ったところか。
アニメ「刀使ノ巫女」とは?
物語は現代日本。ただし、現実の世界と違い、「荒魂(あらだま)」と呼ばれる妖怪に近い存在と、「御刀(おかたな)」という特殊な刀と特殊な技を使って荒魂を鎮める「刀使(とじ)」と呼ばれる少女たちが存在し、世間にも広く認知されている。
「刀使ノ巫女」は全24話。半年間放送され、物語は「胎動編」と「波乱編」の二部構成だ。
「胎動編」は刀使たちの頂点に立つ折神紫(おりがみゆかり)の見守る御前試合から始まる。決勝に進出した十条姫和(じゅうじょうひより)は紫の暗殺をもくろむが失敗。逆に殺されそうになるところを、決勝の対戦相手だった衛藤可奈美(えとうかなみ)に救われて、逃走する。姫和が紫を襲撃したのには理由があった。実は、紫の正体は人の姿をした荒魂だったのだ。
「胎動編」は第2話からは可奈美と姫和の逃亡劇を主軸に話が展開している。確固たる目的を持って紫を討とうとする姫和と、姫和が紫を暗殺しようとした時に紫が荒魂であることに気づいてしまった可奈美。強い意志と覚悟を持つ姫和と、成り行きで姫和を助け、姫和を一人にできないと行動を共にする可奈美。ほとんど面識も会話もない状態から逃亡生活を送ることになった二人は、逃走と戦闘を続けながらも友情を深めていく。
二人を追うのは折神紫率いる刀使を管理する組織「刀剣類管理局」と、折神家の親衛隊。しかし、彼らも紫が荒魂であることは知らず、ただ可奈美と姫和を「反逆者」として追跡する。その一方で、二人の逃走を支援する者たちも現れる。
可奈美の行動に理解を示す親友の柳瀬舞衣(やなせまい)、言われるがままに可奈美と姫和を捕えに来た糸見沙耶香(いとみさやか)、刀剣類管理局とは別の目的を持って二人を追跡する古波蔵エレン(こはぐらえれん)と益子薫(ましこかおる)、可奈美と姫和に彼女たちを加えた6人は、やがて運命のの意図に手繰り寄せられるように集結し、さらに彼女たちの親世代の因縁も絡み、6人は荒魂に支配された管理局に立ち向かっていく。この6人が仲間になるというのは、オープニングとエンディングの映像を見れば5秒でわかる。
以上が「胎動編」の12話までの話。「波乱編」は「胎動編」から4か月後の新たな戦いを描く。
青春スポーツものとしての「刀使ノ巫女」
「刀使ノ巫女」というアニメは、「胎動編」と「波乱編」で少し物語の味が変わる。可奈美と姫和の逃走劇を主軸とした「胎動編」に対し、「波乱編」では刀使たちの日常も交えながらも、新たなる脅威に立ち向かう姿を描いている。
ただ、どちらも「剣術青春スポーツもの」としての要素が強い。
「刀使ノ巫女」には「写シ」や「迅移」、さらには皐月夜見のように体内に入れた荒魂を駆使して戦うといった特殊能力的な要素があるが、基本的にはどの刀使もチャンバラで戦う。それぞれ戦法に差があれど、チャンバラで戦うのは一貫していて、突然火を噴いたり、手足が伸びたり、なんて物はない。
なので、刀使として強くなるということは、ほぼイコールで剣の達人になることと解釈して問題ない。剣の達人になるためには剣の修業あるのみである。
このように、修行の方法とか、強さのレベルとかが、現実世界に存在するものであり、明確にイメージしやすい。刀使たちは強くなるために滝に打たれることもなければ、謎の特訓とか修行とかをすることもない。ただひたすら剣の稽古稽古。
「波乱編」の終盤になるにつれて、「強さ」が物語のカギとなってくる。可奈美と歩の想い描く「強さ」の違いだったり、可奈美が剣術に何を求めているかが物語のカギを握っていたり、最初から最後まで「剣術」が物語の中心にあり続けるのだ。
和風ファンタジーとしての「刀使ノ巫女」
一方で、「刀使ノ巫女」のタイトルの半分が「巫女」であるように、彼女たちは荒魂を鎮める巫女であり、普通の剣士と違い、「御刀」を通して超常的な力を発揮できる。
最も代表的なのが、体を霊体に帰る「写シ」である。これによって、刀で斬られてダメージは残っても傷が残ることはない。腕がぶっ飛んでも胴体が真っ二つになっても無傷。「写シ」の設定を知らない人はもちろん、知ってても一瞬ぎょっとなるシーンだ。
この他にも、刀使の力の源となる、現世(うつしよ)とは違う世界、隠世(かくりよ)の存在や、刀使の宿敵である荒魂など、ファンタジー的な要素も十分にある。
そして、こういった用語のほとんどが日本語、さらに言えば和語だ。
え? ストームアーマー? あれはどう見ても特殊能力じゃないから置いとけ。
え? スペクトラムファインダー? あ、あれはスマホのアプリだろ(汗)
世界観も実に和風だ。荒魂が古来より妖怪だの怨霊だの言われてきたものの正体である、というのはよくある設定だとして、ノロが再び結合して荒魂にならないように各地の神社に分散して祀っていたなど、日本古来の習俗を絡めた世界観となっている。
その説明をしてくれるのが、アメリカ人科学者のフリードマンだというのが何とも面白い。
和風SFとしての「刀使ノ巫女」
さて、ここまで、「刀使ノ巫女」は青春チャンバラファンタジーである、という話をしてきたが、ここでこのアニメのもう一つの側面について語りたい。それこそが実はこの記事の本題だ。
「刀使ノ巫女」は和風SFである!
さっきまで「ファンタジー」と言っていたのに、今度はSFと言い出すとはどういったご乱心か。
実際、SF要素が皆無なわけではない。ファンの間ではダサいことで有名なストームアーマーはどう見ても科学の産物だし、ノロを科学的に研究するフリードマンというキャラクターも出てくる。
だが、もっと話の根幹部分がSF的、詳しく言えば、現代の科学文明へのメタファーになっているのだ。
そのことを説明するためにはまず、ノロと荒魂の設定を確認しなければならない。「刀使ノ巫女」ファンのひとも「知ってるわい」とは言わず、しばし付き合ってほしい。
まず、「珠鋼(たまはがね)」という、御刀の材料となる神性を帯びた特殊な金属がある。こいつを精練・加工して人は隠世の力を引き出せる刀・御刀を作った。
さて、珠鋼から御刀を作る際、珠鋼から分離して廃棄される不純物がある。これが「ノロ」である。
そして、この「ノロ」が結合すると荒魂となり、人を襲うようになる。
どうしてただの不純物だったノロが人を襲うようになるのか。
ノロは珠鋼から引き離されることにより、「人の手で珠鋼から無理矢理引き離された」という喪失感を抱えている。その喪失感が集まることで意志を持ち、暴れ出す。高度な知性を持つタギツヒメクラスになると、人間への復讐心をも抱くようになる。
つまりは、そもそも人間が御刀なんて武器を作らなければ、ノロが生まれ、荒魂が生まれることもなかったのである。これは作中でも指摘されていることだ。姫和曰く刀使は「祖先の業を鎮め続ける巫女」。荒魂とは、祖先が犯した過ちそのものなのだ。
そして、こうも言える。
荒魂はずばり、産業廃棄物だ、と。
そう言う意味では、荒魂は実は、科学技術が生み出した怪物であるゴジラとかヘドラとかに近い存在だと言える。
水爆実験のよって海にばらまかれた放射能から誕生したゴジラ。科学と経済の発展にとなう環境汚染によって誕生したヘドラ。荒魂はこれらに近い存在なのだ。
珠鋼から御刀を作る。現代の科学技術からすればかなりアナログなやり方なのだろうが、これもまた「人間の技術」である。人間の技術が生み出したプラスの側面が「御刀」、負の側面が「荒魂」なのだ。
そして、この「ノロ」は厄介な性質を持っている。
消えないのだ。
荒魂を切ればノロに戻る。だが、それ以上浄化することはできず、再結合して荒魂にならないように分散して保存するしかない。ちなみに、「御刀にくっつけて珠鋼に戻す」というのは不可能らしい。
ここで注目したいのが、薫のペットの荒魂「ねね」の存在だ。
普段はピカチュウみたいなサイズ感で益子家の守護中として薫を守るのだが、もともとは身の丈何尺もある荒魂だった。薫の先祖に討伐され、益子家で人間と共存するうちに穢れが落ち、人間に対する攻撃性が次第になくなり、サイズもどんどん小っちゃくなり、おっぱいへの飽くなき探究心を残して無害な存在となった。今でも巨大化できるが、凶暴性はなく薫たちと一緒に戦っている。
さて、さらりと「益子家で人間と共存するうちに」と書いたが、アニメの描写を見る限り、どうやら「何世代にもわたって」益子家と一緒にいるうち位に穢れが落ちていったらしい。
ちなみに、この「ねね」には実はモデルがいる。薫の御刀「祢々切丸」は日光二荒山神社が所蔵する実在の、日本最大の刀で、昔々、日光山中にいた「ねね」という妖怪をこの刀が一人でい動いて対峙した、と伝えられている。
伝説の中で「昔々」と語られているのだから、ねねが凶暴な荒魂だった時代は、室町時代、それよりもっと前ぐらいかもしれない。益子家の刀使の歴史は400年あるそうなので、そのくらいの年月は経っているのかも。
そこから何世代もかけて、ねねは穢れを落として無害なものとなった。逆に言うと、穢れを落とすのに何世代もかかったともいえる。
人間の技術が生み出した負の側面である荒魂。それを無害化するの何世代もかかるのだ。
こういったことを考えると、僕は「刀使ノ巫女」における荒魂とは、人間の科学文明のメタファーなんじゃないかと思えてならないのだ。