アニメ「刀使ノ巫女」が最終回を迎えてから、そろそろ1か月が経とうとしてるのだが、相変わらず録画した最終回を見たり、借りてきたDVDを見たり、ネットラジオ「とじらじ!」が始まったりと、
僕の中で「刀使ノ巫女」愛が終わってくれない。頑張って働いて、DVDを買おう。今も、ラスト2話の録画を見たり「とじらじ!」を聞いたりしながら書いている。
というわけで(どういうわけ?)今回はアニメ「刀使ノ巫女」に関する考察を全部で5つほど書いていこうと思う。今後増えるかも(笑)。
考察① 欠落した最終回と「未来エピローグ」~姫和が可奈美に伝えたかったこととは?~
「欠落」と書いてみたが、悪い意味での欠落ではない。(第1話は悪い意味で色々欠落してたけど)
ここでいう「欠落」とはこういうことだ。
可奈美と姫和が隠世から帰ってきた直後、仲間たちとの再会シーンという、一番見たかったシーンがバッサリとない。
とはいえ、それは決して悪いことではない。むしろ、すべて説明してしまう方がつまらない。物語はセリフやシーンをバッサリとカットし、読み手や視聴者に類推させることも大切だ。「このセリフの裏にはこんな思いがあるんじゃないか」とか、「こういうシーンももしかしたらあったのではないか」と、読み手や視聴者が勝手に類推していくことによって、世界観が広がって、ますますのめりこんでいく。
「あえて描かない」というのはなかなか難しいが、とても大事なことである。
というわけで、「あえて描かれなかったこと」を勝手に類推してみよう。
「描かれなかった再会シーン」も興味深いが、今回注目したいのは、最終回の姫和のセリフ
「可奈美に会いたい…。会って、今度こそ…」の「…」の部分である。
「今度こそ…」と言いつつ、今度こそ何なのかが語られていない。すごく大事そうなことが語られていないまま最終回が終わってしまった。果たして、姫和は今度こそどうしたかったのか。
それは、可奈美に直に会わないとできないことらしい。だが、それ以上のことはこれだけではわからない。このシーンの後、姫和は可奈美と再会するが、そこに「今度こそ」の答えがあったとも思えない。
僕が目をつけたのは、エンディングテーマだ。
アニメ「刀使ノ巫女」『波乱編』のエンディングテーマ『未来エピローグ』。
タイトルの意味がさっぱり分からない。
「刀使ノ巫女」の主題歌はOPとED合わせて全部で4つ。「Save you Save me」「心のメモリア」「進化系colors」そして、「未来エピローグ」。
他の三つのタイトルの意味はなんとなく分かる。具体的な意味は分からないが、言いたいことはなんとなくわかる。
だが、
「未来エピローグ」ってなんだよ! 意味が分からんぞ。
となんとなく疑問を抱きながら見ていたのだが、最終回を見て、あることに気づいた。
先ほど書いた「欠落」の部分である。現世に帰ってきた可奈美と姫和が仲間たちと再会するシーン、そう、
エピローグに当たるシーンがバッサリとないのである。
もしや『未来エピローグ』とは、このバッサリ切られたエピローグシーンのことなのではないか。なるほど、この曲が初めて放送された第13話の時点では、第24話は「未来」である。未来のエピローグを音楽で先取り、という意味だったのではないだろうか。
そう考えると、6人がみな笑顔で、手と手を取り合っているジャケットのイラストは、まさに二人が隠世から帰って仲間たちと再会したその瞬間のようにも見える。
さて、「未来エピローグ」のサビの歌詞はこうだ。
「君と出会えて本当に良かったといつかはちゃんと伝えたくて、明日の君に笑ってる姿を見せたい。だから踏み出せるんだ」
これが、姫和が可奈美に対して「今度こそしたかったこと」なのではないだろうか。すなわち、
「君と出会えて本当に良かったとちゃんと伝えること」。僕は「未来エピローグ」の1番の歌詞は、最終回後の姫和の心境なのではないかと考えている。(ちなみに、2番は可奈美の心境だと思っている)。
考察② なぜ、高津学長はヒステリックおばさんになってしまったのか
考察①は類推の域を出ないが、考察②はかなり自信があるし、すでに言及している人も思う。
鎌府女学院の高津学長、アニメの中で人間サイドの悪役を一手に担い、ファンの間からは「ヒステリックおばさん」、縮めて「ヒスおば」などと言われていた(出演者もそう呼んでいた)
一方で、回想シーンに出てきた20年前の高津学長は普通にかわいく、この美少女がなぜあんなに歪んでしまったのかと考えると涙を禁じ得ない。
なぜ、高津学長はあんなにも歪んでしまったのか。そして、なぜあそこまで沙耶香に固執したのか。
鍵は20年前の相模湾岸大災厄にある。
相模湾岸大災厄の時、高津学長が負傷したため、特務隊は紫と篝を残し撤退を余儀なくされた。高津学長は自分のせいで撤退となることを嫌がり、いっそ見捨ててくれとまで言っている。
この時の経験が、
「なんとしても紫の役に立つ」という執念へと変わってしまったのだろう。
この時、高津学長が使っていた御刀が、沙耶香が受け継いだ妙法村正。
沙耶香は高津学長にとって、「20年前の自分の代わり」に他ならない。
ところが、「紫の役に立つこと」に固執していた高津学長だが、その固執の対象の紫の正体は実は大荒魂タギツヒメだった。
すると、紫とタギツヒメの分離後、固執の対象はタギツヒメに向かい、紫に対しては「正直苦手」と嫌味を飛ばしている。まことにもってこじらせためんどくさいおばさんである。
ちなみに、五箇伝の学長は全員人妻だ。もちろん、あの高津学長も。
それを知った時僕は、「あり得ない!」と折神紫ばりに目を見開いたものだ。
高津の旦那さんの心労をお察しする。
2018/12/9 追記
……と思っていたのだが、
DVD付録のショートストーリー「美奈都と篝」を読むと、どうやら高津学長は大災厄の前から、結構面倒くさい性格だったようだ。
「大災厄を機に変わってしまった」のではなく、
「大災厄を機にこじらせてしまった」の方が正しいように思えてきた。
考察③ 沙耶香の成長とは具体的にどのようなものだったのか
そんなヒスおば・高津学長と対照的なのが糸見沙耶香である。ファンの間でも「24話を通して1番成長した」との呼び声が高い。
では、その沙耶香の「成長」とは具体的にどのようなものだったのだろうか。
初期の沙耶香は、言われるままに任務をこなす、高津学長曰く「人形」。感情に乏しく、自我が薄かった。
その沙耶香が第7話で初めて自分の意思を表す。それだけで大した成長なのだが、
彼女の成長はそこに留まらない。
沙耶香の得意技は「無念無想」。迅移を持続的に使う技だが、技の名前が「無我の境地」を意味するように、反射的な攻撃となる。その戦い方に可奈美は「何も伝わってこない」と感じ、「そんな魂のこもってない剣じゃ、何も斬れない!」と投げかける。
その言葉を第22話では沙耶香が自身と似た境遇にあった歩に投げかける。それを見て皆
「沙耶香、成長したなぁ」と涙を流したわけだ。
沙耶香が可奈美と同じセリフを言ったことが、成長の証なのだとすれば、沙耶香の成長とは、可奈美に近づいたことだと言える。
より具体的に言えば、
沙耶香の剣が「よく見る、よく聞く、よく感じ取る」というコミュニケーションのような可奈美の剣に近づいた、ということだ。機械のように無我の境地で戦っていた沙耶香が、相手をよく見て、よく聞き、よく感じ取るようになった。その証拠に、この歩との戦いで沙耶香は歩の動きをよく見て、動きを読んでかわしている。
第15話では「荒魂は敵」という認識だった沙耶香と、「人と荒魂は共存できる」と考える薫のコンビで話が進む。そこで沙耶香は荒魂との共存の可能性を学ぶ。
最終決戦で沙耶香は、姫和の「タギツヒメは荒魂ゆえの孤独を抱えている」という話を聞き、「かまってほしいから暴れるなんて、まるで子供」という言葉をつぶやいている。
その結果、最終回で遊撃隊となった沙耶香は荒魂討伐後「おやすみ。もうさみしくないから」とつぶやいている。ついに、人間だけでなく人類の敵であった荒魂にも想いをはせるようになったのだ。「荒魂は悪い存在だから斬る」のではなく、
「荒魂を孤独から解放するために斬って祓う」ようになった。
それは巫女としての役割も担っている刀使本来の姿なのかもしれない。
考察④ 「刀使ノ巫女」は誰もがが救われる物語である
ツイッターにこんなことが書かれていた。「刀使ノ巫女」はラスボスであるタギツヒメさえ、最後は救われる物語なのだ、と。
なるほど、確かに
「刀使ノ巫女」は「敵味方関係なく、誰もが救われる物語」と言える。
悪いやつを懲らしめて「ざまぁみろ!」というお話ではない。
まず、可奈美と姫和。可奈美は7歳の時に、姫和は13歳の時にそれぞれ母親を亡くしている。最終回はその二人が隠世で母親に巡り合うお話。
つかの間とはいえ、母との最期の時間を過ごせたわけだ。
さらに、姫和に至っては、最終回で篝から「あなたは今幸せ?」と問いかけられて、「…はい。辛い時、重たい荷物を一緒に持ってくれる大切な人が、仲間達がいてくれるから」と返している。
誰にも頼らず、たった一人で復讐を成し遂げようとした少女が、仲間とめぐりあい、仲間がいるから辛くても幸せと答えられるようになった。こんな救われる最終回があるだろうか。
救われたのは作中で「悪」を担っていたタギツヒメや高津学長も同じだ。むしろ、
マイナス要素が大きかった分、救われたという気持ちも大きい。
沙耶香曰く「かまってほしくて暴れてた」タギツヒメは、最後に美奈都から「手合わせをしよう」と持ちかけられる。
かまってもらえたタギツヒメは笑みを浮かべた。
高津学長も荒魂に囲まれ誰も助けが来ず、絶望のどん底に落ちる中、夜見が助けに来る。
夜見の高津学長に対する想いに触れた後は、憑き物が落ちたかのようにおとなしくなる。彼女は彼女なりに救われたのだろう。
さらに、作中で二人、死んでいったものがいる。親衛隊第三席の皐月夜見と第四席の燕結芽である。
死んでしまったこと自体はバッドエンドなのだが、彼女たちの想いはしっかりと遂げられているのだ。
夜見は
ただ一つの望みであった高津学長からのねぎらいの言葉を聞いて死んだ。死んでしまったことは悲しいが、彼女は彼女で救われていたのだろう。
結芽は「何にもいらないから、覚えていてくれれば、それでいいんだよ」という言葉を最後に残して死んでいった。彼女の持っていたストラップは真希に受け継がれ、最終回でもストラップを見つめる真希が描かれている。
「覚えていてくれればそれでいい」という彼女の願いは果たされたのだ。
願わくは、「休みが欲しい」という紗南の願いも果たされて欲しいものだ。
考察⑤ 「刀使ノ巫女」の続編はあり得るか
「あり得ない…!」
「あり得るよ!」
「あり得ない…! 刀使ノ巫女は完結している!」
「らしいね」
「こんな未来、あるはず…」
「でも、こうしてみんな望んでる!」
最終回放送直後、「ぜひ続編を」との声が多かった。まあ、最終回を迎えたアニメはだいたいそう言われるのかもしれないが。
ただ、
「かなひよのいちゃいちゃしてるところをもっと見たい!」という人も多いだろう。
しかし、
「刀使ノ巫女」とは可奈美と姫和という二人の少女の物語であり、この物語はもう完結してしまっているともいえる。完結した物語に無理に続編を作る、というの難しい。
そもそも、今の衛藤さんは強すぎる。再び可奈美を主人公とした物語を描こうとすると、もう魔人ブウぐらいの敵じゃないと盛り上がらないのではないだろうか。生半可な敵が出てきても、速攻でフルボッコで終わりである。
主人公にするには、剣の腕も人格もまだまだ発展途上、の方がいい。
僕は、続編を作るならこの人物を主人公にするのがいいんじゃないかと思っている。
内里歩だ。
歩なら剣の腕はまだまだ発展途上。人格に関してもまだ未熟な面がある。むしろ、一度過ちを犯しているからこそ、人の心に寄り添えるいい主人公になるのではないだろうか。
そして、最終回、強敵相手にどうしても敵わない、そこで衛藤さんの登場である。本当の意味での「衛藤さんと一緒に戦う」という歩の願いが果たされるのだ。
……というシーンを勝手に妄想して、一人でニヤニヤしている。
あり得ない?
あり得るよ!